にできる vs ができる

ichfrage

Senior Member
Chinese
っこない(っこなし)の用法を調べた時、ある例文が見つかりました。

そんなことは子供にできっこない。

日语实用词典,百万用户的选择 MOJi辞書

この文のいみがわかりますが、私の質問は、

1.もし“に”を“が”に置き換えると、文の意味が変えられませんか?

そんなことは子供ができっこない。

2、例文の“っこない”を“っこなし”に置き換えるといいですか?

そんなことは子供ができっこなし。

3.っこないとっこなしとはほぼ同じですか?いつも置き換えられるですか?

ありがとうございます。
 
  • 動詞「できる」の構文の基本的な形は、
    [誰か] [何か] できる
    です。"[誰か]に" と "[何か]が" を主題化すると,
    "[誰か]は [何か]が できる"
    "[何か]は [誰か]に できる" (< [何か]は)
    となります。「できる」が関係節の中で使われている場合に,
    [誰か]できる[何か]
    という言い方の他に
    [誰か]できる[何か]
    [誰か]できる[何か]
    という言い方も良く耳にしますし、インターネット上でもこの種の例文が見付かります。

    提題の「は」が関係節内で「が」や「の」に変換されることはご存じではないかと思いますが、何かの論文で「助詞の『に』も省略されることがある」読んだことがあるので、主題化された "[誰か]には" から助詞の「に」が省略された "[誰か]は" が影響しているのかも知れません。しかし、不勉強な私には分かりません。

    これらの理由から、ichfrageさんの例文
    そんなことは子供ができっこない。
    は、文法的に間違っていると思いますよ。因みに"子供ができる"というのは慣用表現ですから、注意して下さいね。

    「なし」は「ない」の古い終止形であるだけでなく、「ないこと」と全体を名詞化させることもあるので、具体的な例文がないと何とも言えませんね。
     
    そんなことは子供にできっこない。=そんなことは子供ができっこない。(意味同じ。置き換え可能)

    そんなことは子供が(または「に」)できっこなし。 :cross:

    Joschlさんがおっしゃっているように「なし」は、現代日本語の口語ではなく、文語表現であり、「体言止め」に使われたりもするので、たとえば「俳句」や「格言」「ポスターに添えるキャッチフレーズやスローガン」「法律家や警察が特定の文脈で用いる場合」などの特殊な文脈でのみ用いられます。

    今回は、この文章の他の部分が「できっこ」と口語表現のため、最後に「なし」という文語表現をつけると、違和感を強く感じますし、文法的に適正ではないと思われます。


    例えば「その行為 子供にできるはずもなし」という川柳なら成立すると思います。
     
    Last edited:
    SoLaTiDoberman said:
    そんなことは子供にできっこない。=そんなことは子供ができっこない。(意味同じ。置き換え可能)
    そうですか。私には無理ですね。"[何か]が[誰か]にできる"という構文から導くことはできない様に感じます。上の表現を導くことができる構文があるとすれば、"[誰か]は/が、[何か]をできる"ですかね。これが正しい構文なのか存じませんが...
     
    私もSLTDさんの提唱する置き換えは無理だと感じます。「AはBができる」という構文は、AはBを遂行することが可能な集団の一員であることを意味します。文脈によって「Bが」に「Bこそが」「Bだけが」という意味を強制することは可能かもしれませんが、独立した用法の「できる」では文例を確認することができませんでした。参考としてNINJAL-LWP for BCCWJの「できる」に次のような例があったのを挙げておきましょう(s.v. 私ができる)。
    私が参加できないのに、6万出すのはキツイです…。

    「をできる」の方では小計として「利益をできる」や「文字をできる」が計上されていますが、実際の用例は「利益を確定できるということ」などです。
     
    1 子どもがそんなことをできるわけがない。(I think this sentence is okay.) (<---もしこれが正しくないのなら話になりませんが。)
    ---> 2 子どもがそんなことできるわけがない。(I think this sentence is okay.)
    ---> 3 そんなことを子どもができるわけがない。(I think this sentence is okay.)

    1 子どもがそんなことをできるわけがない。
    ---> 4 子どもがそんなことはできるわけがない。(I think this sentence is also possible.)
    ----> 5 そんなことは子供ができるわけがない。(I think this sentence is also possible.)

    きちんと校正された文語としては5は適切ではないかもしれませんが、口語で、「そんなこと」を強調したくて、また「は」を使って「そんなこと」が他のこととは顕著に異なることを強調したくて、また「子供が」を主語に使いたいとスピーカーが考えてしゃべった日本語として、5は、その意図がわかるイントネーションで話せば、全く問題ない日本語(または日本語のゆらぎの許容範囲内の日本語)だと思いました。

    6 そんなことは子供にできっこない。
    7 そんなこと子供にできっこない。
    8 そんなことは子供ができっこない。
    9 そんなことが子供ができっこない。
    10 そんなことでは子供ができっこない。
    11 そんなことでは子供はできっこない。

    僕にとっては9は明らかに文法的に誤りであり、意味をなさないと思います。
    また僕にとって、10,11は、"it's impossible for kids" ではなくて、"It's impossible to get pregnant" という別の意味にもなりますが、
    8を聞いても、10,11の別の意味に取り違えることはなく、僕は全く問題ないと思っていました。

    8が正しい日本語ではない、というご指摘をいただき勉強になりました。
    これって地域差(方言)による日本語のゆらぎなのでしょうか?
     
    Last edited:
    私は日本語の"Valency dicitionary"の様なものを持っていないので、「公式」な構文が調べられませんが、「できる」自体の重要な補足語のポジションは、
    ([誰か]に)[何か]ができる
    であると感じます。"([誰か]に)"はなくてもOK。...という感じなので、私自身は、"[誰か]は、[何か]ができる"という構文は"[何か]ができる"という構文に、外から"[誰か]は"が添えられたものか、"[誰か]には"の助詞"に"が省略されたものと見ています。ここで注意した方が無難だと感じることは、助詞「は」と「が」の問題とも関連していることですが、提題の「は」は文全体に係ることができるが、「が」は節にしか係ることができないということです。出現できるポジションが同じに見えるからというだけで、単純に「『は』が立てる場所には『が』も立てるし、またその逆も然り」などと考えるべきではないでしょう。

    既に#4で申しましたが、"[誰か]が"という補足語を"[誰か]に"から導き出すことには無理があると思います。導くとすれば、
    無題文から題目を持つ判断文、判断文から強調構文を経て,そこから"強調/排他 の「(外ならぬ)[誰か]が」に辿り着くとい手順を踏むことになるのではないかと思います。つまり、
    1. 無題文: [何か]ができる。
    2. 有題文: [誰か]は、[何か]ができる。
    3. 強調構文: [何か]ができるのは、[誰か]だ。
    4. 強調排他の「が」: [誰か]が[何か]ができる。
    という感じになるかと思いますが、ichfrageさんのご質問は「『に』を『が』に変換できるか」というものですから、私の答えは「NO」です。

    もう一つは、「できる」自体は「ヲ格」を取ることができるのかどうかという問題ですが、私自身が注目したいのは、「する」が使われる構文といわゆる「可能動詞」からの影響です。現在では「する」自体を可能形に変えることはなく、その代りに「できる」を使います。"[X](を)する"の様な「スル構文」は、
    1.「ことができる」で拡張させるか、
    2.「する」自体を「できる」に置き換えるかにより、変化させることができるでしょう。そうでなければ、
    3.「できる」自体の構文"[X]ができる"を使うことになるでしょう。
    つまり、大雑把に見ると、
    [勉強]する:tick:-> [勉強]することができる:tick:/ [勉強]できる:tick: | [勉強]ができる:tick:
    [何か]の[勉強]をする:tick: -> [何か]の[勉強]をすることができる:tick: / [何か]の[勉強]をできる:warning: | [何か]の[勉強]ができる:tick:
    ということになると思います。語感の分かれ目は、:warning:でマークされた文の判定に現れるだろうと思います。つまり、ある人には「許容範囲外」と感じられ(私自身はこの類に入ります)、ある人には「許容範囲内」と感じられるでしょう。

    更に可能動詞の構文でも「が」と「を」の競り合いを見ることができます。元の動詞が「ヲ格」を取る場合に、その動詞が可能動詞として用いられると、元の動詞の「ヲ格」を受け継ぐか、「可能」の意味の影響で「できる」と同じ様に「ガ格」を取ることになります。
    文章「書ける人」と「書けない人」のちがい HUFFPOST
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    「できる」の結合価について考える時、最低でもこれらのことを考慮する必要があると思います。インターネット上で見付けることができる構文に「A」も「B」も「C」も「D」も有る場合、構文の表面だけでは感じることができない繋がりを慎重に見る必要があると思います。ですから、「A」も「B」も「C」も「D」も"有る"からというだけで、単純に「A」も「B」も「C」も「D」も同等に「アリだ。」とは言えないでしょう。また、該当する例文がどれ位の比率で見付かるのかという数量的な違いも考慮しなければならないことは言うまでもありません。
     
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