1.では、ある個人が助詞「は」により主題として提示され、その主題化された個人の属性が述部で述べられています。つまり、1. あなたはものの分別のある人だ
2. あなたがものの分別のある人だ
この文の属性が述べられている述部を助詞「は」により主題として提示ると、次の様になります。[あなた]は [ものの分別のある人]だ
「[名詞句]だ」が述部の場合、「だ」の連体形と助詞「の」は省略されるのが普通なので、[ものの分別のある人]なのは [あなた]だ
となります。この文は、「述べられている属性を持った人は(外ならぬ)貴方だ」と複数の選択肢の中から該当する個人を挙げています。述部でのべられている個人と主題化されている属性をもう一度反転させると、[ものの分別のある人]は [あなた]だ
という文になります。この文の意味は、実質的に、上の強調構文のそれと同じ様なものと見て差し支えないのではないかと感じています。2. [あなた]が [ものの分別のある人]だ
ichfrageさんは、「いいですか。」と幅広い問い掛けをなさっているので、私なりに答えてみました。ichfrageさんのご参考になれば幸いです。[あなた]は [どんな人]ですか。-> [あなた]は [ものの分別のある人]だ。
[ものの分別のある人]は [誰]ですか。-> [ものの分別のある人]は [あなた]だ。
[誰]が [ものの分別のある人]ですか。-> [あなた]が [ものの分別のある人]だ。
「あなたは(orが)ものの分別のある人だと思っていたのだけど、残念だわ」は、文字ゲームをした時、ある文を読みました。
原文:あなたはものの分別のある人だと思っていたのだけど、残念だわ。
この文の意味がわかりますが、一つの疑問があります。
この“あなたはものの分別のある人だと思っていた”を完全的に広げれば、
“私はあなたはものの分別のある人だと思っていた”となります。もし“あなたは”を“あたなが”に変えれば、いいですか?ここに“が”を使ってば、もっと理解しやすいと思います。
“あなたがものの分別のある人だと思っていたのだけど、残念だわ”っていいですか? --->いいです。しかし「は」の方が自然だと思います。
ありがとうございます。
「ものの、用ふるなかれ」と訓読し、「ものの分別」なる語はない、単に「分別」といえという意味です。@2: (ものの勿用) の意味が私にはわかりませんでした。何と読んで、どういう意味ですか。
私は理解しやすさについては何も主張していません。おそらく日本語教育では、埋め込み文の中の主語は「が」でマークされることが多いと指導されることが多いのではないでしょうか。「あなた」は「だ」の主語であり、主語述語全体が、より大きな「思う」を動詞とする文に埋め込まれています。だから、ichfrageさんは「ここに“が”を使ってば、もっと理解しやすいと思います」と書いたのだと思いますよ。おそらく#2でご回答いただいた、「その方が文意を理解しやすいから」、というのが理由なのだと思います。
違います。私は、助詞「は」に代わって助詞「が」が使われている従属文も文法的には正しいが、助詞「が」を使った文は該当する文脈に沿わないので、ここでは使えないと指摘したのです。ですから、SoLaTiDobermanさんのお言葉をお借りすれば、「正しい日本語である」けれども「ニュアンス」が異なるので、ここでは使えないと申しているのです。ですから、私自身の語感では、SoLaTiDoberman said:#3も、[...]「は」でも「が」でもニュアンスは異なるが、両方正しい日本語である、とおっしゃっているのですよね?
とは感じられません。もし、次の三つの構文SoLaTiDoberman said:[...]「は」を「が」に変えても、意味は1の意味であり、変わることはないと思います。
の内で実質的に同じ(様な)意味である文を選べと言われれば、私は、2と3を選びます。1と2でもなく、1,2,3の全てでもありません。それは、2と3と対になる疑問文を見ても明らかではないかと思います。2も3も該当する属性を持つ個人(ここでは「あなた」)を回答として要求する文ですから。2と3では、文自体の表面には出てませんが、回答として文に現れる個人(「あなた」)には、文脈内でのある選択肢 (例えば「彼」、「彼女」、「あなた」)の中から指し示されるニュアンスがありますが、1の述定型の判断文の助詞「は」は「あなた」を主題として挙げ、その個人の属性を発話者なりに述べているので、私にとっては、1の文と2の文の談話での使用場面は異なります。ですから、1の文と2の文の意味も当然異なります。1. 貴方は分別のある人だ。(述定型の判断文)
2. 分別のある人は貴方だ。(同定型の判断文)
3. 貴方が分別のある人だ。(同定型判断文の転位文)
での「は」と「が」の選択の妥当性の理由も従属節のそれと同じだと感じています。つまり、私は[…]と思っていた
ということになり、ichfrageさんの例文の文脈において、主節の「わたし」や従属節の「あなた」が文面に現れない選択肢の一つとして指し示されているものでない限り、従属節や主節の主題をそれぞれ「あなたが」や「わたしが」に替える根拠はないと感じます。ですから、たとえ、助詞「は」が主節と従属節で隣り合わせに使われていて紛らわしいとか分かり難いと感じられても、ただそれだけの理由で従属節の「は」を「が」に交換したり、主節の「は」を「が」に交換したりすることはできないと感じます。何故ならば、談話での使用現場がそれぞれ異なるからです。1. [貴方]は、[何]と思っていましたか。-> [私]は[斯く斯く云々]と思っていた。(述定型の判断文)
2. [斯く斯く云々]と思っていたのは、[誰]ですか。-> [斯く斯く云々]と思っていたのは[私]だ。(同定型の判断文)
3. [誰]が[斯く斯く云々]と思っていましたか。-> [私]が[斯く斯く云々]と思っていた。(同定型判断文の転位文)
なぜ通常起こる従属節内での提題助詞「は」の「が」への変換が該当する例文で起きないのか私なりに説明してみようと思います。主節の動詞「思う」はその補足節として「と」を使った引用節を取ります。引用節も補足節ですが,引用節には具体的に発話できるものなら基本的に何でも現れることができます。該当する例文の引用節にも「貴方は,分別のある人だ(と[...])」という有り触れた述定型判断文が入っています。これは独立した単文として発話できます。もしも,話者の方が「分別のある人は,貴方だ」という同定型判断文の意味の内容を「貴方が分別のある人だ」という転位文の形で発話したとしても,引用される同定型判断文の転位文での「が」の使用方法は,通常の補足節内での「は」の「が」への変換という文法的な制限に関与しないということになると思います。ですから,従属節を比較してみると,その「独立性の度合い」に差があることに気付けます。例えば,俗に言う「対比の『は』」は従属節内でも「が」に変換されることはまりません。これも「独立度」が高い例と言えるのではないかと思います。Flaminius said:[...]補文標識「と」ではそうではない[...]
は,使えるかどうかということです。「基本動詞ハンドブック」の「思う」にも([私]は,)[貴方]は[分別のある人]だと思っていた。 -> ([私]は,)[貴方]を[分別のある人]だと思っていた。
という構文が載っていますが,該当する見出し語の担当者が評価の対象となる<人>はヲ格に現れることができないという見解なのか,私には良く分かりません。文型 <人>が<もの・こと>を<評価>と思う。 語義8