1. 圧倒的だなんて言葉では表現しきれない、絶望的な戦力差である。
しかもそれらが皆、親でも殺されたかのような調子で士道に憎々しげな視線を送ってきているのだ。どれだけ肝が据わった人間でも汗くらい滲ませようというものである。
2. だが、改変後の折紙の意識が『士道への思い三〇パーセント:節度七〇パーセント』だったところに、『士道への思い一二〇パーセント』が足されたなら、バランスも崩壊してしまおうというものだった。
Hi. Are both というものだs used to emphasize the speakers’ assumptions (推量形:〜よう)?
I found an explanation to a similar question here, which says
Do you agree with the above explanation? If not, what nuance or function would the というものだs have?
Thank you.
しかもそれらが皆、親でも殺されたかのような調子で士道に憎々しげな視線を送ってきているのだ。どれだけ肝が据わった人間でも汗くらい滲ませようというものである。
2. だが、改変後の折紙の意識が『士道への思い三〇パーセント:節度七〇パーセント』だったところに、『士道への思い一二〇パーセント』が足されたなら、バランスも崩壊してしまおうというものだった。
Hi. Are both というものだs used to emphasize the speakers’ assumptions (推量形:〜よう)?
I found an explanation to a similar question here, which says
「う・ようというものだ」という文型の使い方をどなたか教えてください。 - 「それだけ努力をすれば、どんなにむずかしい試験にでも、合格... - Yahoo!知恵袋「それだけ努力をすれば、どんなにむずかしい試験にでも、合格しようというも のだ」
というような表現のことですね。
この文型は、推量を表わす「~(よ)う」と、話し手の判断を断定・強調する 「~というものだ」とが 合わさったもので、推量の根拠となることを述べてから、それに基づく話し手の 予測・判断を述べる言い方です。
Do you agree with the above explanation? If not, what nuance or function would the というものだs have?
Thank you.